「モーツァルト!」 山崎ヴォルフと古川ヴォルフを比較してみた

全体を通しての感想。

総じてモーツァルトの人物像を理解するのが難しい。たぶん天才由来の難しさとミュージカルで与えられる情報由来の難しさがダブルであるからかな。

ミュージカル由来の方は状況説明と心情描写が同時に歌になっているので、一回観ただけではついて行くのにやっと。特に封建的な時代の貴族社会と音楽家の関係がいまいち分かっていないまま観てしまったのも原因か。関係理解に時間がかかった。

 

新演出にけちをつけるわけではないけど。

モーツァルトの内なる葛藤と家族との関わりだけでも、結構お腹いっぱいなのに、革命情報と封建的貴族社会との対立、それにモーツァルトが巻き込まれていくみたいなのが、がっつりではなくちょこちょこ入ってくる。

1幕は封建的貴族社会との対立、2幕は革命との関わりにするが、2幕とも封建的社会との対立だけにしてくれた方がミュージカル全体への理解がスムーズに行われるのでは?

モーツァルトが「音楽は僕のもの」的発言をコロレドにしているのに、同じタイミングで「民衆のために音楽を書く」的な発言もしていて、一貫性がないやん!となった。それがモーツァルトの性質を表しているのかもしれないけど。

本人の才能と家族関連の苦悩中心にもっと強く感じられる材料に革命やコロレドとの対立を使えそうなのになあと。ちょっと残念。

 

まあ古川さんヴァージョンと山崎さんヴァージョンの計2回観られたので、ある程度消化できた感じ。

 

内容に関して。 

子供の頃は「天才、奇跡の子」とほめられるだけで幸せで、モーツァルトはアマデを完全に一体だった。

でも成長するにつれて、音楽のみを追求し、愛されるアマデだけではいられなくなる。ヴォルフガングの部分が出てくる。(他の人と同じように遊びたい!他の人が音楽以外の部分でほめられて認められるように、自分も!)だから、ある程度成長した後にアマデとヴォルフガングに分かれているのだろう。

ヴォルフガング・アマデウスモーツァルトが一人の人間でありながら、一人の人間としてすべてを愛されない(アマデの部分だけ見られる)辛さや葛藤が彼の人生のすべてに見える。だから「ありのままの僕を愛してほしい」という叫びが聞いていて辛い。

心えぐられる。

でも、その頃はまだ向こう見ずで世間知らず。なんだかんだあったけど、(ありすぎ!)子供の頃人々から賞賛されたように、大人になって再び世間から認められた。でも彼が最も愛し、認めてほしいと願った父に突き放された。「なぜ愛せないの」と歌う場面はさらに悲壮。

 

なんだかんだの部分でヴォルフガングは父の忠告を無視して、父の心配した通りのことをその通り実行している。家族はばらばらになり、父は築き上げた名誉を失い、打ちのめされている。だから素直に喜び、褒められない気持ちも分からんでもない。

数年前に「モーツァルト!」と観た時はモーツァルトの才能を使って出世したい父のように思えたけど、今回はそうは全然思わなかった。

 

むしろ天才的な才能は必ずしも本人や周りの人を幸せにするとは限らないんだなあと。まあそんな才能は後天的に得られるものでない。神が与えるとするならば、神は非情だなと思うし、良かれと思って与えたなら、神世界とこの世界の幸不幸や善悪には相当の隔たりがあるんだろう。

 

姉ナンネールが「終わりのない音楽がこの世にあるかしら」と問いかけ、自身の人生を

嘆く。たしかに彼女の人生は父と弟に翻弄されたようだ。モーツァルトが亡くなって、彼女がアマデが持っていた箱を開ける。すると音楽が流れてくる。まるで彼の作ってた音楽には終わりがないかのように。彼女がふっと微笑んだように見え、唯一救われた。答えを見つけたのかな。確かに彼の作った音楽はこの世が果てるまで消えない。

 

ヴォルフガングがアマデに対して一筋縄に「好き」「嫌い」ではないから考えていくとなかなかおもしろい。完全に突き放せないけど、常に一体というのでもない。反対にアマデがヴォルフガングに影響を与えることも多々あって、アマデも強い意志を持つ。アマデはずっと音楽を作っているか、というと、ヴォルフガングがコンスと一緒に「愛し合えばわかる」みたいに歌う場面では作っていないんだな。できないのだろうか?平凡な幸せと天才の幸せは両立不可能ってこと?

彼は他人との関係に悩みながら、自分の中でも自分の思い通りにできない争いや葛藤を持っている。これはだれにもあることかもしれないけど。

 

それはそうと、父はヴォルフガングとアマデどちらを愛していたのだろう。成長したヴォルフガングの夢の中で「手に入らないものは幸せ」と言ったり、「自分の手でレクイエムを書け」と言ったり。そのあたりの意図が分からなかった。(ヴォルフガングの父への憧憬が父の幻覚を作り出したのかもしれないけど)

モーツァルトは人の望む音楽を作れない。父の望む生き方はできない。父の言葉、忠告は理解できないけど、神の言葉=音楽は理解できる。やっぱり父の子である前に神の子だったよね。

 

2人のモーツァルトを観ることができたのでその違いを。

 

古川さん

ヴォルフガングとしての彼がどう生きていきたいのかに全く分からない。だから1幕で猊下にクビにされたり、パリに行って借金まみれになったり、ウィーンに行くと行ったりするけれど、「この人何がしたいの?」感しかない。正直1幕終了地点では観ているこちらも困惑が強かった。

自我を感じない。無邪気な子供のまま。アマデ以外の言葉にできない部分を固めたのがヴォルフガングって感じ。とにかく父に愛されたい!(山崎さんだと父に認められたい!という感じ)父か心配するのもすごく納得できる。幼すぎる。こちらも観ていて心配になるくらいの人。パリでも失敗も当然の流れ。行く前から失敗する以外の先が見えない。

その後ウィーンに行ってからのコンスとの結婚も成功もヴォルフガングが望んだことのはずなのに、流れでそうなった印象。強い意志を感じない。本人は意志を表明してるはずなのにそうは見えない不思議。

父が亡くなり、ようやく自我がでてきた。でも父がいなくなった・・・一人でやっていくしかない・・・っていうあくまで父を軸にした自我。コンスとの破局も本人の意志というより運命の流れ。そして流れのままレクイエムを書く。そこで死ぬことが決まっていて、そこに向かって集約していくようなモーツァルト。常に死がそばに寄り添っている。

今まで観たモーツァルトの中で異質。他のモーツァルトは葛藤して、もがきながら生き、やがて絶望する人物像。一方で、古川さんは自分の才能にも周囲の人々にも翻弄され、もがくけど、既に決められた大きな流れに抗えない。もちろんその瞬間瞬間には自分で決めたことがあるけれど、その決定も運命から逃れられない。大局は変えられない。そんなモーツァルト。彼の才能は天から授けられたものだけど、人生も神に司られているようだった。だから観ていて非常に苦しい。

 

山崎さん

ヴォルフガングとしても自我がぱきっと分かりやすい。アマデとは違う部分が自分にはある。でも父も姉も周りの人も全然気にしてくれない。アマデ以外の部分も含めた僕を認めてほしい!という叫びが最初から見える。

だからこそ、結末を知っているのにパリで意外とうまくいくかも!とかウィーンでうまいことやっていけるかも!と思える。(古川さんだと皆無。)

父と決別してしまうシーンももっと言い方あるよね・・・となる。(これも古川さんの時は全く思わなかった。山崎さんだとヴォルフガングにいちいち期待してしまう)

その分うまく行かなくて悲嘆にくれる叫び、歌声が刺さる。単純に歌がうまいし、余裕があって聴きやすい。(古川さんは常に一生懸命な歌い方だから、それがヴォルフガング像につながったのかもしれない、一生懸命やっているのに全然うまくいかない辛さを見続けるのはこちらも辛い)

最期の場面も山崎さんだといろんな人にいろんなやり方で関わったがんばってはみたけど、やっぱり理解されない絶望感が感じられた。試行錯誤したけど駄目→絶望→死。

生きた時代や物事のタイミング次第で才能と折り合いとつけて生きられたらよかったのにね、と思わせるモーツァルト像。がんばったのに惜しいよね、悔しいなという最期(古川さんの辛いとはまた違う)

 

どちらがいいではなく、全く違う印象を持った。同じ才能を与えられても人生は違うんだなと思ったし、作った音楽も違うかも!なんてことも思った。

Wキャストにする価値もある配役だった。特に古川さんの像は新鮮でおもしろかった。

 

同時に分かったこと。

古川さんの顔が圧倒的に好み。スタイルもめっちゃいい!奇跡の人だ、他の人とは違う!という説得力が全身像から伝わる。

歌声は山崎さんに一票。最後の最後(死後)アマデと手をつないで絶唱するところは鳥肌。そこだけ10回くらいリピートしたい。

今まで古川さんがこんなに歌うミュージカルを観たことがなかったからかもだけど、私は彼の声があまりすきではないようだ。残念すぎる。でもまた古川さん演じる何かを観たい。他の人のモーツァルトと彼のモーツァルトが全く違ったので、Wキャストや再演もので観ると面白そう!