久しぶりのテニミュ 2018全国氷帝

8/10 4年ぶりくらいにテニミュに行ってきた。

テニミュに行く」こと自体が友人Aに誘われてという受動的なものだったため、彼女の熱次第。その彼女の熱が冷めていたここ数年はかなり遠ざかっていた。

その彼女の熱が少々上がったらしく、久しぶりにチケットが回ってきた。しかも、彼女は仕事のため、テニミュ初めての友人Bと二人で観劇。

友人Bは2.5系のミュージカルを観るのも初めて。かつて私が初めてテニミュを観た時に感じた「!!!」という感情を次々口にしており(言葉にできない)、「そういえば私も最初はそう思ったっけ?」と懐かしくなった。

 

しかし久しぶりなことが原因なのか?私の記憶力の問題なのか?舞台が新鮮で、とにかく驚いた。前回観たときよりはるかに役者みんなが跳んでいた!みんながみんな、ぴょんぴょんはねていて(試合の時ではなく、歌うときね)「4年も経てば、世間の男の子たちの運動能力も上がるんだなあー、すごーい」というよくわからない感想とともに、彼らの身体能力に感激した。

それと、氷帝跡部さんのダンスがバレエの下地を感じるもので美しいなあ、跡部っぽいのかなと思った。

ぼんやり観ていたので、試合が始まるまでの感想は

①みんなめっちゃ跳ぶ!若い!

跡部さんのダンスが優雅!

くらいしかなかった。

(その後、友人Aに確認すると、単純に私が数年前観たキャストはあまり運動能力が高くなかったらしい)

試合が始まるとおなじみのセットが出てきて、あまりにも何も変わってなくて安心した。セリも盆もないのにステージに動きがあって毎回驚く。テニスをやってはいないけど、テニスをやっているんだよね、(何を言っているのかよくわからない)ほんとに不思議。それをはらはらしながら観るんだから、舞台ってすごい。(客席ももちろんだけど、役者たちも勝つ!って思いながら演じているから成り立つのかな?)

そうはいっても、スコアは相変わらず謎で、歌もよくわからなかった。そしてベンチの台詞も。(テニミュ若手俳優はやっているからか、そういう演出なのかわからないが、私の耳はいつもあまり聞き取れない)

海堂・乾ペアの歌は前回聴いたときも「この歌の正解はなんだ?」と戸惑った記憶が薄々あるが、今回も同じ感想。難しいのか?その割に同じ歌に聞こえたけど(変えてもいいのでは)演出の方のお気に入りの曲なのか、ファンに人気があるのか?不明だ。

手塚部長の試合は彼自身が何度も「手塚国光」と連呼してくれて、休憩中友人Bと「すごく自己紹介してくれたね!」とふたりで笑えて幸せな歌だった。それにしても青学メンバーがもう試合をやめてくれ!って部長に近づくのに、りょーま君が「部長はやめない!」って言ったら、みんなが賛同して「がんばれ手塚!」って手のひら返しするのが、おもしろいを超えて、運動部系の根性論に見えて恐ろしくて、すっごく引いたのだけど、あれは漫画にある描写だから仕方がないのだろうか。

(友人Aに聞いたところ、あそこは不二君だけが近づいていかないところを観て欲しかったといわれた←まさかの回答。彼女が言うには、不二は手塚が人の言葉に左右されないし、手塚が最後まで戦うことを知っているから他のメンバーのようには振る舞わないらしい。いや、さらに恐ろしい。)

一幕終了。友人Bと互いに感想を言い合う。

二人で

①一年トリオが可愛い!そして彼らの説明がわかりやすい!(友人B)

②「手塚国光」の名前推しが激しい!(私、友人B)

③手塚を応援するくだりで「手塚」と「部長」が乱立するのが、原作通りなのだろうがなかなかシュールだ(私、友人B)

④不二君は試合しないけど、大きな歌歌うんだね、人気キャラだから?(友人B)

4点について盛り上がった。これまでの観劇では友人Aが私の疑問に解答をくれたので、今回が即座に答えがわからないのはもどかしけど、つっこみながら観るのもなかなか楽しかった。

でも二人ともあまり集中できず、二幕に期待だね!という感じ。

二幕よかった!

ダブルスの「見えない糸」からの「シンクロ」は観ている側も感情が高まる流れで本当に良かった。べたな展開からの「シンクロ」ってなんだそりゃ?!というテニミュ的展開。前回観た時ここまで「いい!!!」とは思わなかったけど、今回はかなりぐっときた。

でもこのダブルスの場面は青学だけが良くてもだめで、氷帝の二人も好みじゃないといけないよね。氷帝の二人も宍戸さんの泥臭さともう後がないという必死さ、鳳さんのつかみ所がないんだけど、宍戸さんには全幅の信頼と何があっても一蓮托生だ!という覚悟が見えていいペアだなあと。(たぶん歌もそんなに問題なかった)

シングルスなら最低限、二人が好みならいいけど、ダブルスは四人とも好みかつペアの関係性も好みでないと好きになりにくい。だからダブルスを観ていいと思えたことは凄いことだ。

ここまでぼんやり観劇していたけれど、ダブルスで一気に目が覚めた!(ようやくテニミュによってもたらさせる血の滾りを思い出した感じです。)

そのあとの跡部さんとりょーま君の試合は正直よくわからなかった。なぜりょーま君が勝ったのかとか、技の内容とか。跡部さんのダンスが綺麗だったかな。本当に優雅に舞う男だった。跡部さんの歌は新しくなっていたけど、歌詞が踏襲されているのか「氷の世界に跪け!」と連呼されて、あー跡部さんだわとなぜか安心。跪けと言われて安心するの我ながら笑える。

しかしりょーま君の歌はなんだったのだろう、謎のオノマトペ?「じんじん」だったっけ?とダンスの振りがあまりかっこよくなくて、主人公のはずだけど、いまいち見せ場がないなーと思った。ファンの方から観て、曲とダンスはどう映っているのだろう?私のような意見は少数派なのか?

(友人Aに聞いたところ、これまで私が観ていた小越りょーま君はかなり押し出しの強い人で、あれは原作「リョーマ」ではないとのこと。原作「リョーマ」はテニスは得意だけど、他は目立たない普通の人。だから、今回のりょーま君は原作に寄っているとも言えると言われました。)そういうものなのか。なんか群像劇っぽかったよね、今回。

 

試合が終わり、いつも通り、チームソングを歌った後、過去のテニミュのチームソングを歌ってくれる時間があって、またびっくりした。(前回観た時には、そのようなものを観た記憶がなかったので)

同時に前回の観劇を思い出し、唐突にめっちゃくちゃ懐かしくなった。そういえば、あの時も暑かったなとか、その時していた仕事とかも不意に思い出してテニミュを通して、過去を思い出した。完全にテニミュも私の一部ですね。そして、ファンサービスが行き届いているなとしみじみ。

幕が下り、友人Bと二人「楽しかったね☆」という空気になっていたら、再び幕が上がり再び役者が登場。この流れをすっかり忘れていた!もちろん曲は変わっているが謎のダンスと覚えやすいはずのフレーズは変わらず(覚えやすいはずのフレーズは役者の滑舌のせいでいまいちわからない)

ダンスはひたすらクラゲのように「ふわふわ」だったかな?「ふわふわ?」と突然の出来事に驚いているとさらに驚く展開に!役者は客席に降りてきたのだ!(前回から変わっていないが、失念していた)しかも通路側だったため、多くの役者さんが笑顔を振りまき、ハイタッチをしてくれる!友人Bと固まりつつ、貼り付けた笑顔でハイタッチした。近づいてくる役者さんはもちろん中学生ではないけど、みんな十代から二十歳そこそこの雰囲気でとにかく若い!驚きつつも、若いひとだなーと冷静に二の腕を観てしまった。

そんな感じで無事観劇終了。

最後の最後の客席降りが想定外すぎて観劇後に友人Bとは

①急に近くに来て、ハイタッチをしてびっくりした!

②りょーま君が主人公と思いきや、あまり目立たない。

ということぐらいしか、話せなかった。

特に会話の80%は①だった。私も友人Bも役者にそんなに近づいて触れたいタイプではないからか、「怯えたよねー」という慰め合いに終始していた。

 

数年経っても、女性ファンはたくさんいて、キャストも若く一生懸命で、変わらず元気を提供してくれていて、内容うんねんはもちろんだけど、役者もファンも含めた「テニミュ」そのものがいいなと思った時間だった。

しばらく離れていたけれど、また冬には再び観に行きたい。

 

「MESSIAHー異聞天草四郎ー」 を観た

宝塚花組「MESSIAHー異聞天草四郎ー」を2回観劇。

先日の「邪馬台国の風」によって苦手というか、かまえてしまう部分ができて、本当にどきどきしながら観劇。

相変わらず、明日海さんは美しく、舞台を引っぱる力に満ちていた。多くの役者さんにスポットが当たる作りでした。

 

天草に難破した倭寇の長、夜叉王が、密かにキリスト教を信仰しつづける天草の人々に助けられ、彼らの過酷な環境に憤怒し、彼らのために立ち上がる(=天草四郎となる)徳川幕府がまだ盤石ではなく、これから盤石の体制を作ろうとする時代、将軍、老中、藩主、民たちがそれぞれの立場で何を信じるか、何を大切と思うかを見た。

 

厳しい生活の中で、キリストの教えにすがり信じることで生きながらえる人々。四郎の言葉が皆にとって新しい「救い」になり、蜂起する部分は四郎のカリスマ性についていったと片付けるには少々もの足りないように思った。キリスト教を信仰しない彼に一心についていくのは「???」となった。その場面で輪に入っていけない右衛門作が自然に見えた。彼の場合は流雨への気持ちもあって四郎を認められない部分もあったんだろうけど。ただ、民たちの「絶望→希望の光を見る→熱狂」(キリスト教を信じ始めた時もそうだったのかな)それこそが、「何かを信じること」そのものなのかもしれない。信仰心の源とでもいうべきか。

(単純に明日美さんの長台詞にも感動した。たぶん美しい人が熱意をもって語るという姿、内容が相まって一種ヤバイ空気を作っていたともいえる)

 

天草島原一揆の結末を知っているから、最期みんながどうなるのかはわかっていたけど、辛かった、たまたまオペラに華優紀さん演じる小平が入り、四郎との絆を表す貝殻を四郎に見せつけながら息絶えるのを見てしまい、辛かった・・・

なんで女子供まで巻き込んだ全滅を選択したのか・・・

四郎の首を幕府に差し出し、改宗することできたよね!!!。そうすれば天草をハライソにすることができた、だってみんな四郎の言葉によってキリスト教の教えではなく、自分の中にある内なる神を信じたでしょ!だったら踏み絵なんて恐れないでしょ!

(まあそうすれば、この物語は天草四郎物語ではなくなるのだろうけど。)

だから、辛い気持ちに加えて、なぜなんだという不信感が戦いの場面で私の心の中を駆けめぐっていた。

そんな中でも、水美さんの美しすぎる姿、鳳月さんの救いのない極悪非道っぷり、仙名さんの天使の声かと思う歌声(もっと聞きたかった!)、瀬戸さん桜花さんのいちゃいちゃ夫婦、かわいすぎる子役芸などときめくポイントはたくさんあって結構楽しめた。

最後の場面は右衛門作の書いた絵なのかな?こがね色が象徴的に使われていて、それまでの複線回収があって驚いた。当時こがね色を実際使うことが難しかったとするならば、右衛門作の頭の中で描かれた想像の絵なのか?

四郎が流雨の横でほほえんでいるのを見ると、彼のことを許していたんだなあ。唯一生存し、生き延びた苦しさや四郎が天草の人々にしたことを考えると一筋縄ではいかない気がしたけど。右衛門作の芸術家らしい感受性が強く、線が細い雰囲気が柚香さんによく似合っていた。

全体として物語に大きな破綻がなく(「???」と思ったけど、明日海さんの放つカリスマ性でこらえた、カリスマ性といえば、彼女は台詞だとそんなに感じないけど、歌うとその歌詞に説得力が出る、歌声が魅力的!歌詞も台詞より聴き取りやすいくらい!)見ることができた。期待値がかなり低かっただけかもしれないが。舞台転換や照明の使い方が結構好みだった。欲を言えば、もっと流雨について書き込んでほしかった。私は仙名さんの芝居、歌がかなり好きなので、もっと出てほしいと。まあ少ない出番でもきらっと光っていましたが、次の公演はもっと活躍してほしいですね。

 

 

 

 

夏ばてに効く舞台 スタミュミュを観た(7/21)

人気公演なのに、友人にチケットを取っていただきありがたく観劇。

友人から原作DVDと昨年のミュージカルのDVDを見せてもらって予習はしておいた。(しかし、半年くらい前なので鮮明には覚えておらず・・・いろいろ申し訳ない)

原作を見たときは、高校生の青春もの+5人一組というよくある設定に、舞台好きの琴線に触れてくる歌やミュージカル的な演出が感じが新しいなあと思っていた。正直友人がどはまりしているほど心おどったとはいえないが、実際ストーリーを舞台化したり、レビュー的なものを作ったら観てみたいとは思ってた。

 

当日、会場にいくと、2.5次元らしい客層。久しぶりの雰囲気に心弾む。ファンのみなさんの服装なんかからはみなさんがどんな年代で、職業が何かいまいちわからなくで観ているだけで楽しい。それでも思い思い舞台を楽しんでいることが伝わってくるから不思議。(そういう私も友人とは服装や雰囲気が違うから、一緒に歩いていると何つながり?とよく聞かれる)

 

舞台が始まると、演出家さんの特徴なのかな。階段の動きが躍動的で、舞台の展開が畳みかけるようにスピード感たっぷりに進むから観ていて飽きない。

ストーリーは高校生らしい「青春!!!」物語。先輩後輩のつながりに胸が熱くなる。私自身は先輩後輩のつながりが希薄な高校生だったけど、こんな人間関係を築けることがうらやましく、ただひたすらまぶしかった!

「夢をあきらめるなんて、できない!」なんて言葉がこのアニメの根源なのだから、直視できないほど、きらきらしている。アニメでも元気をもらえるのに、生で見た日には元気をこれでもか!これでもか!と与えられた。

ミュージカルアニメらしく、みなさんすぐ歌ってくれるので、ミュージカル好きとしてはうれしかった。歌もショーアップされたものが多く、ひたすら楽しい。随所に演出の工夫とアンサンブルの方の活躍が見られ、ミュージカルってアンサンブル大事だよねと思い出した。演出の工夫が宝塚のショーを見ている気分になる部分やジャニーズのライブ風のものがあって、観ていて飽きない。いろんな要素のいいところ取りできているのでは。

 

ふれ伏すほどうまい!とか、圧倒的説得力!ではないけど、高校生らしい荒削りでそれしかないのだ!という驚くほどのまっすぐさがそれぞれ表現されてた。役者さんは高校生ではないので、それは役者の力なんだろうな。

それにしても、役者さんの若くて、発光しているようなきらめきは本当に2.5次元の特徴だなとしみじみ観た。(このあと、新感線のメタルマクベスをみたけど、やはり2.5系の役者(松下優也さん)だけ違う光を放っていた・・・)

 

ストーリーはべたな展開で、最終的にハッピーエンドなので劇場を出るときは、すごく元気いっぱい。夏の暑い時期にがんばれる点滴を打ってもらった。夏バテに効く舞台でした。

 

気になった人。

 

丘山晴己さん。

ダンスが異次元だった。主人公が憧れる高校生役らしく、纏っている雰囲気が別格。ものすごく簡単そうに、さらっと踊っていて、抜き方のきれいな人だった。雑というか、舞台上の自分をコントロールするのが、うまい。歌もお上手でショースターっぽかった。役柄は過去に縛られて、不器用な人だったけど、(ダンスでの表現は最高なのと裏腹)ご本人の持つ雰囲気は明るい感じで、役が暗くなりすぎずほどよい塩梅だなと。それにしても観客席を釣る感じ(宝塚のショーみたいに)ではなく、ただほほえみながら見ていた。客席との距離が他の人とは違って(近いというか、丘山さんの舞台と客席の捉え方がよくわからない)おもしろかった。また観たい人。

 

TAKAさん。

顔が綺麗。「綺麗」すぎてびっくりした。歌もダンスもお芝居も初めてなのか?という初々しさ(台詞が心配だった・・・)の固まりだけど、ひたすら顔が「綺麗」でいったい何者なんだ!と目を引いた。「綺麗」すぎると目立つのね。終わった後、開口一番、友人にだれあれ?と聞くぐらいだった。舞台経験はない見たいだけど、これから引く手あまたなんだろうな。

 

 

「モーツァルト!」 山崎ヴォルフと古川ヴォルフを比較してみた

全体を通しての感想。

総じてモーツァルトの人物像を理解するのが難しい。たぶん天才由来の難しさとミュージカルで与えられる情報由来の難しさがダブルであるからかな。

ミュージカル由来の方は状況説明と心情描写が同時に歌になっているので、一回観ただけではついて行くのにやっと。特に封建的な時代の貴族社会と音楽家の関係がいまいち分かっていないまま観てしまったのも原因か。関係理解に時間がかかった。

 

新演出にけちをつけるわけではないけど。

モーツァルトの内なる葛藤と家族との関わりだけでも、結構お腹いっぱいなのに、革命情報と封建的貴族社会との対立、それにモーツァルトが巻き込まれていくみたいなのが、がっつりではなくちょこちょこ入ってくる。

1幕は封建的貴族社会との対立、2幕は革命との関わりにするが、2幕とも封建的社会との対立だけにしてくれた方がミュージカル全体への理解がスムーズに行われるのでは?

モーツァルトが「音楽は僕のもの」的発言をコロレドにしているのに、同じタイミングで「民衆のために音楽を書く」的な発言もしていて、一貫性がないやん!となった。それがモーツァルトの性質を表しているのかもしれないけど。

本人の才能と家族関連の苦悩中心にもっと強く感じられる材料に革命やコロレドとの対立を使えそうなのになあと。ちょっと残念。

 

まあ古川さんヴァージョンと山崎さんヴァージョンの計2回観られたので、ある程度消化できた感じ。

 

内容に関して。 

子供の頃は「天才、奇跡の子」とほめられるだけで幸せで、モーツァルトはアマデを完全に一体だった。

でも成長するにつれて、音楽のみを追求し、愛されるアマデだけではいられなくなる。ヴォルフガングの部分が出てくる。(他の人と同じように遊びたい!他の人が音楽以外の部分でほめられて認められるように、自分も!)だから、ある程度成長した後にアマデとヴォルフガングに分かれているのだろう。

ヴォルフガング・アマデウスモーツァルトが一人の人間でありながら、一人の人間としてすべてを愛されない(アマデの部分だけ見られる)辛さや葛藤が彼の人生のすべてに見える。だから「ありのままの僕を愛してほしい」という叫びが聞いていて辛い。

心えぐられる。

でも、その頃はまだ向こう見ずで世間知らず。なんだかんだあったけど、(ありすぎ!)子供の頃人々から賞賛されたように、大人になって再び世間から認められた。でも彼が最も愛し、認めてほしいと願った父に突き放された。「なぜ愛せないの」と歌う場面はさらに悲壮。

 

なんだかんだの部分でヴォルフガングは父の忠告を無視して、父の心配した通りのことをその通り実行している。家族はばらばらになり、父は築き上げた名誉を失い、打ちのめされている。だから素直に喜び、褒められない気持ちも分からんでもない。

数年前に「モーツァルト!」と観た時はモーツァルトの才能を使って出世したい父のように思えたけど、今回はそうは全然思わなかった。

 

むしろ天才的な才能は必ずしも本人や周りの人を幸せにするとは限らないんだなあと。まあそんな才能は後天的に得られるものでない。神が与えるとするならば、神は非情だなと思うし、良かれと思って与えたなら、神世界とこの世界の幸不幸や善悪には相当の隔たりがあるんだろう。

 

姉ナンネールが「終わりのない音楽がこの世にあるかしら」と問いかけ、自身の人生を

嘆く。たしかに彼女の人生は父と弟に翻弄されたようだ。モーツァルトが亡くなって、彼女がアマデが持っていた箱を開ける。すると音楽が流れてくる。まるで彼の作ってた音楽には終わりがないかのように。彼女がふっと微笑んだように見え、唯一救われた。答えを見つけたのかな。確かに彼の作った音楽はこの世が果てるまで消えない。

 

ヴォルフガングがアマデに対して一筋縄に「好き」「嫌い」ではないから考えていくとなかなかおもしろい。完全に突き放せないけど、常に一体というのでもない。反対にアマデがヴォルフガングに影響を与えることも多々あって、アマデも強い意志を持つ。アマデはずっと音楽を作っているか、というと、ヴォルフガングがコンスと一緒に「愛し合えばわかる」みたいに歌う場面では作っていないんだな。できないのだろうか?平凡な幸せと天才の幸せは両立不可能ってこと?

彼は他人との関係に悩みながら、自分の中でも自分の思い通りにできない争いや葛藤を持っている。これはだれにもあることかもしれないけど。

 

それはそうと、父はヴォルフガングとアマデどちらを愛していたのだろう。成長したヴォルフガングの夢の中で「手に入らないものは幸せ」と言ったり、「自分の手でレクイエムを書け」と言ったり。そのあたりの意図が分からなかった。(ヴォルフガングの父への憧憬が父の幻覚を作り出したのかもしれないけど)

モーツァルトは人の望む音楽を作れない。父の望む生き方はできない。父の言葉、忠告は理解できないけど、神の言葉=音楽は理解できる。やっぱり父の子である前に神の子だったよね。

 

2人のモーツァルトを観ることができたのでその違いを。

 

古川さん

ヴォルフガングとしての彼がどう生きていきたいのかに全く分からない。だから1幕で猊下にクビにされたり、パリに行って借金まみれになったり、ウィーンに行くと行ったりするけれど、「この人何がしたいの?」感しかない。正直1幕終了地点では観ているこちらも困惑が強かった。

自我を感じない。無邪気な子供のまま。アマデ以外の言葉にできない部分を固めたのがヴォルフガングって感じ。とにかく父に愛されたい!(山崎さんだと父に認められたい!という感じ)父か心配するのもすごく納得できる。幼すぎる。こちらも観ていて心配になるくらいの人。パリでも失敗も当然の流れ。行く前から失敗する以外の先が見えない。

その後ウィーンに行ってからのコンスとの結婚も成功もヴォルフガングが望んだことのはずなのに、流れでそうなった印象。強い意志を感じない。本人は意志を表明してるはずなのにそうは見えない不思議。

父が亡くなり、ようやく自我がでてきた。でも父がいなくなった・・・一人でやっていくしかない・・・っていうあくまで父を軸にした自我。コンスとの破局も本人の意志というより運命の流れ。そして流れのままレクイエムを書く。そこで死ぬことが決まっていて、そこに向かって集約していくようなモーツァルト。常に死がそばに寄り添っている。

今まで観たモーツァルトの中で異質。他のモーツァルトは葛藤して、もがきながら生き、やがて絶望する人物像。一方で、古川さんは自分の才能にも周囲の人々にも翻弄され、もがくけど、既に決められた大きな流れに抗えない。もちろんその瞬間瞬間には自分で決めたことがあるけれど、その決定も運命から逃れられない。大局は変えられない。そんなモーツァルト。彼の才能は天から授けられたものだけど、人生も神に司られているようだった。だから観ていて非常に苦しい。

 

山崎さん

ヴォルフガングとしても自我がぱきっと分かりやすい。アマデとは違う部分が自分にはある。でも父も姉も周りの人も全然気にしてくれない。アマデ以外の部分も含めた僕を認めてほしい!という叫びが最初から見える。

だからこそ、結末を知っているのにパリで意外とうまくいくかも!とかウィーンでうまいことやっていけるかも!と思える。(古川さんだと皆無。)

父と決別してしまうシーンももっと言い方あるよね・・・となる。(これも古川さんの時は全く思わなかった。山崎さんだとヴォルフガングにいちいち期待してしまう)

その分うまく行かなくて悲嘆にくれる叫び、歌声が刺さる。単純に歌がうまいし、余裕があって聴きやすい。(古川さんは常に一生懸命な歌い方だから、それがヴォルフガング像につながったのかもしれない、一生懸命やっているのに全然うまくいかない辛さを見続けるのはこちらも辛い)

最期の場面も山崎さんだといろんな人にいろんなやり方で関わったがんばってはみたけど、やっぱり理解されない絶望感が感じられた。試行錯誤したけど駄目→絶望→死。

生きた時代や物事のタイミング次第で才能と折り合いとつけて生きられたらよかったのにね、と思わせるモーツァルト像。がんばったのに惜しいよね、悔しいなという最期(古川さんの辛いとはまた違う)

 

どちらがいいではなく、全く違う印象を持った。同じ才能を与えられても人生は違うんだなと思ったし、作った音楽も違うかも!なんてことも思った。

Wキャストにする価値もある配役だった。特に古川さんの像は新鮮でおもしろかった。

 

同時に分かったこと。

古川さんの顔が圧倒的に好み。スタイルもめっちゃいい!奇跡の人だ、他の人とは違う!という説得力が全身像から伝わる。

歌声は山崎さんに一票。最後の最後(死後)アマデと手をつないで絶唱するところは鳥肌。そこだけ10回くらいリピートしたい。

今まで古川さんがこんなに歌うミュージカルを観たことがなかったからかもだけど、私は彼の声があまりすきではないようだ。残念すぎる。でもまた古川さん演じる何かを観たい。他の人のモーツァルトと彼のモーツァルトが全く違ったので、Wキャストや再演もので観ると面白そう!

 

6/18 宝塚雪組「凱旋門」

 

作品が10年ぶりくらいの再演らしく、再演ものがあまり多くない宝塚だけに「どんな作品かなー」とわくわくしながら観劇。一緒に行った望海さんファンの友人はプログラムやポスターに不満ありげだったけど、見終わったあと、どちらを見てもとどういうものにしたらいいのか、番手なんかも絡めると難問だわ。

轟さん主演ものを観るのは「ドクトルジバゴ」に続いて2回目。その時は舞台上の姿があまりにも「男性!」だったのであっけにとられた記憶があり楽しみに観た。

 

オープニングの音楽、セット、ダンスどれも素敵で結構好みだった。

それにしても望海さんの声が劇場全体に染み渡っていて、ほんといい声だとうっとり。

もっといろんな歌を歌う姿を見たい。

ダンスも凝っていて、暗い展開の中だけに映える。音楽も耳に残りやすいものが多くて、歌詞もわかりやすくて好きな感じ。セットも美しい。

演出が派手でなく、キャッチーな音楽があるわけではないので一般受けはしないだろうけど、上田久美子先生の脚本がわりかし好きな人は楽しめるのでは?と思った。

 

お話自体は・・・一言で表現しにくい。

戦争が狂わせ、奪っていく人の人生となすすべもない中で賢明に生きる人のきらめきを観た。誰が良い悪いというより、翻弄されながらそれでもなお生きるしかない人生をどう捉え生きていくか問われているような。

 

戦争前夜のパリという状況を理解するのは難しい。でも「今暮れなずむ時」「戦いの予感」「黒い悲しみが広がる」と歌っている歌詞とメロディーが情景を説明してくれて物語に入っていける。亡命者の現時点での生活への不安や将来への絶望感、過去の挫折や苦悩、苦痛はいろんな登場人物の台詞や行動から、想像できる。

歌詞や人物の台詞だけである程度、情景や人物の心情は理解できるのに謎のストーリー説明台詞がちょこちょこ入っていて、なぜか冷静に「それ言わんでも分かるよ・・・」と何回が引き戻された。再演ものならもう少しブラッシュアップされそうなものだけど。

 

轟ラヴィック

最初50歳もほど近い年齢なのかなーと思ったけど、ボリスとのやりとりを聞いていたら思ったより若そうだった。30代なのね、きっと。声がかすれ気味でそれ自体は役柄と合っててそんなに気にならなかった。ただ歌うとほんとに厳しくて、聞いていてひたすらはらはらした。現実に引き戻されるね・・・反対に真彩ジョアンの声が艶っぽくて、でも澄んでいて魅力的な声。ジョアン自身を表す声だった(蠱惑的なのかと思えば、純粋でひたむきで無垢なようにも見える)

アメリカの富豪の女性とのやりとりは過去に関係があったけど、既に終わっていることがはっきりと分かる雰囲気。短い場面なのに、過去も未来も見えるのはすごい。

復讐をやり遂げる一連の場面、ジョアンの最期の場面も息をのむのもためらうような重厚さで観ているだけなのに、消耗した。ジョアンを失った慟哭は聞くに堪えないほど。

収容所に向かう彼はどこか晴れ晴れとしていて、(考えてみればジョアンに出会った時「生きることが辛い時この人(ジョアン)に出会った」と歌っていて、ラヴィック限界の人だったんだよね、彼女に出会って、復讐も果たした、でも今彼が望むことがこの世界にはなくなっちゃんだな)戦争が奪っていく人の人生を考えると胸が締め付けられた。

 

真彩ジョア

ジョアンは女性から見ると共感とか同情がしにくい女性に見えるけど、「次の男に乗り換えるの早くない?!」とはならなかった。

真彩さんの演じ方や声はもちろんつかの間のバカンスの時の「俗っぽいだと分かっている」とか「パリでの暮らしには静けさがなさすぎ」という台詞が戦争の影を嫌ほど感じさせて、「そうだよね、誰もがラヴィックみたいに自分は幸せな方だ!なんて思えない」「何か少しでも光を感じたい」と思うよね~と。「宝石いっぱいのトランク盗んで♪」なんて歌う姿はかわいらしすぎて、そりゃみんな好きになるわなと納得。ラヴィックの機嫌が直るのも当然でしょ。

そのあたりからジョアンの行動も突飛押しもない身勝手というより、人間のある種の真実の姿だよなと納得して見ていた。

臨終の場面で「愛している時に死ぬなんて不思議」というニュアンスの台詞があって??だった。ただ、ラヴィックとの会話で「愛というのはその人がいなければ生けていけないということ」と言っていたことを思い出すと、彼女はラヴィックを愛していたんだなと問題と解答がピタッとあったような気持ち。ラヴィックを愛しているけど、実際生きていくにはお金も安心も必要で、その瞬間瞬間の気持ちに素直に生きている人だった。

 

作品自体にはいろいろ考えさせられたり、美しいと思える部分はあるけれど、万人受けするものではなかったと思う。大劇場でやるにはもう少し全体に受け入れられる演出や役者の使い方があったのかな。望海さんファンと一緒に観に行ったので、余計に感じたのかもしれないけれど、そろそろトップコンビが幸せにほほえみあえる作品も見たいな。

 

追記

観に行った日がたまたま大阪で地震があった日で13時スタートが14時になった日だった。阪急電車もJRもすべて止まっていたのでお客さんの入りもまばら。

前も後ろも横の列もすかすかという異常な状況で観た。戦争前の重苦しい、楽しみの見いだせない時代という設定と余震におびえながら、なすすべのない状況が重なって、より舞台がシリアスに感じられたのも事実。最後まで熱演してくれたジェンヌさんたちに感謝でした。

 

 

 

 

「百年の秘密」ナイロン100℃ 5/3(兵芸) 秘密って何だろう

ケラさんの芝居を見るのはチェーホフの「三人姉妹」以来。実質的には初めて。ナイロン100℃として見るのは本当に初めて。劇場に入ったとたん素敵な舞台セットがあって期待値が高まる。お芝居の始まり方もいかにもお芝居らしく何が始まるんだろうとわくわくする感じ。かと思えば、プロジョクションマッピングを使った演出があり、一瞬で舞台の世界に引き込まれた。(あとで聞けば、オープニングに強い個性があるらしい。今までの作品のオープニングだけでも見てみたい)

 

 

物語の方は 犬山イヌコさん演じるティルダと峯村リエさん演じるコナ。二人が少女時代に出会い、青春時代そして晩年に至るまで、さらにその先の周囲の人々の年代記。お屋敷のメイドをナレーターのようにして、時間を行ったり来たりしながら、大きな楡の木のあるお屋敷を定点として、「百年の秘密」が何なのか、明かされていく。定点カメラでありながら、まるで大河ドラマのように物語が展開していった。3時間ほどのお芝居だが、100年の時を経験した心地になる。

 

でも、2人の関係のすべてを、そして100年のすべてを見ることはできない(しかも今回はお屋敷の楡の木の定点カメラ的セットなのでその印象が強まる)同時に「この日だけが彼らの人生だったわけではない」(この台詞はナレーターでもあるメイドのもの)ととらえられることができることは物語の残酷さに対する救いになっていた。

 

 「百年の秘密」というタイトルが示すものは「カレルが12歳だったティルダとコナに託した手紙をアンナ先生に渡さなかったこと」なのか。
2人のささいな行いが、その後のベイカー家を巡る出来事を大きく変えてしまった。どんな結果を招いたか見せつけられた後に、些末な秘密そのものが明かされる。結末を知っているからこそ、こどもらしいあどけない判断で行ったことだと感じるからこそ、鋭く心に突き刺ささった。2人が人生の最後に木の下に埋めた秘密を取り出し、取り返しのつかないことをしたと思い知る場面は残酷で救いようがない。不可逆性をまざまざと見せつけられた。2人一緒に秘密を埋めた木の下で死ぬのは罰なのか。

 

「コナがティルダの夫と関係を持った」ことも「秘密」なのか。
皆の運命を狂わせたコナの秘密。この秘密はティルダには明かされたのだろうか。その場面はないので想像でしかいえないが・・・ティルダが失踪していることから考えると真実を知って、もしくは知らされてしまっていたのか。謎は謎のまま、観客には明かされない。

でもこれはこの秘密に限定したことではなく、ティルダとコナしか知らないことや誰一人知らないことも沢山あったはず。カレルとアンナ先生の最期やポニーの本当の父親は誰なのかとか。結局私たちが知ることができるのは見たものだけ。

 

登場人物の中でもっとも印象的で胸と衝いたのはティルダの兄だった。

裕福なベイカー家の長男として生まれ、父母から愛され、期待される。そしてバスケットが得意で優秀選手として未来を嘱望される。誰もがうらやむ、絵に描いたような人生を歩むと思われる人物。のように(と私たちが始めに思えるように)思えた。でも、彼の綻びが徐々に浮かび上がって、やがてその綻びはベイカー家そのものの綻びになる。バスケット選手として推薦を得、大学に進学するはずだった。でもそうはならなかった。なぜ進学しなかったのか、それが明かされたときにはもうすべてが終わっていた気がする。彼は生きているけどもう彼の人生は終わっているように見えた。ナレーターから彼が刑務所で自殺したと聞かされたとき、彼の50年あまりの人生に思いを馳せずにはいられなかった。

父母そしてティルダとの関係。舞台の上に登場する彼は痛々しい。彼が舞台に登場するたび辛くなった。彼のいらだち、葛藤や焦燥がもやもやと広がってきてとにかく息苦しい。

そんな彼に家族なんてものとはすっかりきっかり別れて心機一転やればいいと言うのは簡単だ。でも彼自身が父母の無意識で無神経で過剰な期待の中で育った、育ったということはその期待が彼の一部になっている。本当には逃れられない。もっと彼が鈍感であるか、もっと敏感であるかすれば彼の人は違ってたのかもしれない。

「この日だけが彼らの人生だったわけではない」と何度かメイドが言うのだが、この台詞は彼のためのものだという気分になった。

 

彼には強く感情を揺さぶられた一方、主人公であるティルダとコナの関係は理解することが難しかった。個々については理解しながら見られた気がする。特にティルダの父母兄への対応は見ていていじらしかったし、ああまでも自然にできるという様子からは見えていない部分を補完することさえできた。

でも2人の関係は難しい。

年を重ねて、境遇もさらにちがってくる。そんな中でも揺るがない関係とはなんだろうか?友人関係?友人関係を信じないわけではないけれど、一生続くとは思えない部分もある。(実際人生の途中2人の関係が絶たれているしね)

特に最期の場面でティルダとともに死ぬことを選んだコナを見て、最後の最後分からなくなった。

私にはまだ分からないのか。年を経て再び見たい。

 

 

「メリー・ポピンズ」 梅田芸術劇場 5/23 6/1

あらすじ

1910年のロンドン、チェリー・ツリー・レーンに住むバンクス家。一向に子守が居つかないこの家に、メリー・ポピンズが舞い降りてくる。魔法で部屋を片付けたり、カバンから何でも取り出したり不思議な力をもつメリーと、煙突掃除屋のバートと過ごす素敵な毎日に、子供たちは大喜び。一方、父ジョージは銀行でのある融資をきっかけに、苦境に立たされてしまう。しかしこの出来事をきっかけに、バンクス家は家族の幸せを見つけ、それを見届けたメリーは、また空へ帰って行くのだった。

 

濱田メリー・柿澤バート回(5/23)と平原メリー・大貫バート回(6/1)の2回観劇。

 

原作も映画も見たことがなく、映画ファンの友人に誘われて一回目の観劇、また違う友人から誘われて再びと今回は自分発信ではない体験だったが、大満足のミュージカルだった。

完全なる自分基準で、見に行ってよかったと心底思うミュージカルは次の日朝目覚めて、そのミュージカルの曲が自然に口ずさめちゃうというのがある。「メリーポピンズ」は口ずさめる曲が多すぎて自分のことながらびっくりした。

観劇から日を経た今でも「♪なにもかもパーフェクト♪」「♪お砂糖一さじあれば♪」「♪スパカリ♪」「♪星に手をのばすよりも♪」とメリーの歌うフレーズはもちろん、それ以外の曲もときおり頭に流れてくる。そのたびに観劇している時の幸せな気分がふとよみがえってくる。

子ども向けの作品なのかなと思いながら観劇したが、大人の方がより刺さるのでは。大きな挫折があって明確に何かを失ったわけではないではないけど、このミュージカルを見るとふと自分の過去を振り返って、だらだらと気づかないうちにほんの少しずつ、でも確実に失ったものを考えさせられた。

この考えさせる働きも、劇的な一つの言葉によってという訳ではなく、一曲ずつ一場面ずつ進んで行く中でゆっくり考えさせてくれる(しんみりとはせず、わくわくする高揚感とともに考えられた、舞台の色彩、ダンスの振り付け、演出すべてが高揚感につながっていた)

そして、考えさせられるだけど、感傷的に自分の世界に沈んでいくんじゃなくて、いつもメリーが助けてくれる。舞台の上ではバンクス家のこどもたちがメリーに救われ、学び成長していくけど、観客もメリーに救われる(少なくとも私は)メリーの歌を通した言葉やこどもたちとの会話、そのすべてが私を癒してくれて、力をくれた。

 反対にメリーは孤独だよね、メリーがマイケルと別れるシーンはメリーの孤独を思って涙が出そうだった。

 

物語の後半でミスバンクスが自分にできるのかと迷うシーンがある。迷う理由をこどもたちに聞かれて「女だから」と彼女が言う部分が今回とても辛く胸を突いた。自分が「女だから」という理由で嫌な思いをした確実な記憶はないけど、この台詞が刺さったということは、意識には上がってきていないけど、自分の中にその種があるんだと発見した。少し苦い。

それすらもメリーは「♪どんなことでもできる」と払ってくれたけど。しかもこどもたちも一緒に。そして畳みかけるように「♪星に手を伸ばすよりもあなたが空へ」と力強く伝えられる。

今回はこの一連のシーンがもっとも印象に残った。

 

自分の状況に応じて演劇から得られるものは都度都度変わる気がしているが、今回は自分のタイミングと公演のタイミングがきっといい具合に合ったんだろう。とても幸せな時間を過ごせた。

 

せっかくWキャストを見られたので

濱田メリー・柿澤バート

メリーがとにかくすべて安心!歌、ダンス、お芝居 なにもかもパーフェクト!

バートも歌が上手。お二人とも台詞、歌とも聞きやすい(それだけでもう大好き)

二人の関係はバートのメリー大好き度合いが高い。

公園で最初に出会ったときのメリーへの呼びかけでひとつで、大好きさがありありと伝わってきた。一言で自然とこちらまで伝わってくる。

それ以降の場面もバートのメリー大好き感が嫌みなく伝わってきて、メリーも嫌みなく受け流してて、二人の関係がほんとに自然。

バンクス家でのメリーはほんの少し人外感がある台詞回しだけど、それについて意識することはなかった。

バンクス一家との別れはもちろん寂しいことなんだけど、濱田メリーはいつか来るべきこととどこか達観した感じ。

 

平原メリー・大貫バート

伸びとはりに満ちたメリーの歌は耳福。声のはりはメリーの曲にさらなる説得力を与えるようだった。

 二人の関係は(濱田・柿澤ペアと比べると)バートがメリーの少し年上のお兄さんのように見えた。兄弟という意味ではなく、彼女のすることをそっと側で見守っているという意味で。もちろんメリーのことは好きだけど、柿澤バートのような「メリー大好き!!!」が全面に出る感じではない。こういう二人も見ていて心地よい。

メリーの言い回しは濱田メリーよりもさらに特徴的。それが気になるかと言われるとそうではなく、平原メリーの特徴だよねという印象。特徴的なんだけど、聞き取りにくいわけではない。そして「♪スパカリ」と時には発音が良すぎでびっくりした。

大貫バートの歌でというより体を使って感情を表していて、それはそれで彼らしさだと思う。身体能力に驚かされた。というか、素人目にもダンスのキレが他の誰とも違う。「ロミジュリ」「梅棒」「ビリー・エリオット」で見たことがあったから、既視感があるはずなのに、いつも誰と踊っても、誰とも違うきらめき。歌声を聞くのは初めてだった(柿澤さんと比べたらもちろん・・・・だけど)まあ、全体的にそんなに支障はなかった。

バンクス一家との別れでメリーがほんとに寂しそうで、自分に行かなくちゃと言い聞かせて出て行った感じで、その部分では濱田メリーより人間らしいというか、自分の感情に素直なメリーだなと。

濱田メリーが完璧な印象、一方平原メリーはいじらしさをもったチャーミングな印象だった。どっちも好き。